このことは、先にわれわれが主張したことを確認する。つまり、模倣は単純な行為によっては評価され得ないということである。ルソーは模倣を必要とする。彼はそれを歌の可能性、動物性からの脱出口としてほめたたえる。だが、彼がそれを称揚するのは複製としてだけであり、この複製は、<再現[前化]されるもの>に付加されるけれどもそれに何ものも付加しない、つまりたんなる代役なのである。この意味で彼は、代補と同じように芸術や模倣(ミメーシス)を賞賛している。だが同時に、賞賛は直ちに批判に変ずる。代補的模写は、何ものも付加しないがゆえに無用なものではあるまいか。またもし、にもかかわらず<再現されるもの>に付加されてそれが何ものでもないとすれば、この模倣的代補は<再現されるもの>の完全性に撮って、また自然の本源的純粋性にとって、危険ではないだろうか。
まさしくそれゆえに、盲目的無謬性と夢遊病的確信をもって代補性の体系を移動しながら、ルソーは模倣(ミメーシス)と芸術とを代補(これは無用ではない場合には危険であり、有害でない場合には余計なものであるが、実際はそのどちらでもある)として告発せざるを得ず、また同時にそこに人間の幸運、情念の描写、生命無きものからの脱出を認めざるを得ないのである。
記号という各位はこうして、同じような両義性をはらんでいる。<意味するもの>葉<意味されるもの>を模倣する。ところで、芸術は記号で織りなされている。意味作用が、とにかく最初は模倣の一つの場合でしかないように見えるそのかぎりにおいて、さらに『エミール』によって迂回してみることにしよう。模倣の取り扱いに見られる両義性は、記号、芸術、模倣に関するこのような『試論』の一節をいっそう明晰にしてくれるであろう。 (p.122)
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