器用仕事(bricolage)の唯一の弱点 —だが器用仕事という資格においては、これは克服不可能ではあるまいか— は、自己を隅から隅まで自己自身の言説で正当化し得ないということである。道具や概念の<既=在>(le deja-la)は、破壊されるのでもなければ創出し直されるのでもない。この意味で、欲望から言説への移行はつねに器用仕事の中で自身の道を失い、さまざまな残骸によって自身の宮殿を構築する。(「神話的思惟は…昔の土壌で育った言説の残骸によって自身のイデオロギー的宮殿を構築する。」『野生の思考』p.32) 最良の場合、器用仕事的言説は自分自身を容認し、欲望と敗北とをそれ自体で認め、<既=在>の本質と必然性とを考えさせることができる。またその場合、最も徹底的な言説、このうえなく創造的で体系的な技術者といえども、歴史や言語などによって、つまり一つの世界(というのも「世界」とはそういったもの以外の何ものでもないのだから)によって不意をうたれ、籠絡されるということが分かる。そのような言説や技術者は、この世界から、たとえ古い機構を破壊するためであるにせよ、自分たちの材料を借り受けざるを得ない(bricoleは初めは戦争や狩猟の道具であり、破壊するために作り出されたものだったらしい。そして平和な器用仕事者(bricoleur)のイメージを誰が信ずることができよう)。あらゆる器用仕事と手を切った技術者という観念は、創造主義的神学に依存している。ただそういった神学だけが、技術者と器用仕事者との厳密で本質的な差異などを信ずることができるのだ。
だが、技術者がつねに一種の器用仕事者だということは、器用仕事についてのあらゆる批判は打破すべきものだと言うことではない。まさにその反対である。ではいかなる意味における批判であろうか。まず最初に、器用仕事者と技術者との差異が神学的基礎におけるものだとすれば、器用仕事という概念そのものには偶然的な失権と有限性が伴う。ところで、こういった技術=神学的意味作用は、<欲望>の<言説>への、また<言説>の<世界の歴史>への根源的所属と、言語 —欲望はこれの罠におちこむのだが— の<既=在>とを思惟する際には放棄されねばならない。次に器用仕事によって器用仕事という観念が保有されるのだとすれば、さらにあらゆる器用仕事に優劣がないわけではないということを知らねばならない。器用仕事はそれ自体で批判されるのである。 (p.275 改行は引用者による)
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