ところで、この概念(単純な絶対という概念)がつねに無限論的神学を、ロゴスすなわち神の無限の悟性を指し示すということは容易に看てとれよう(※13)。それだから、本質的に表音的なものではないライプニッツの普遍記号学の企ては、その外見にもかかわらず、またそれがわれわれの時代に正当にも及ぼし得るあらゆる誘惑にもかかわらず、けっしてロゴス中心主義と縁を切らないのである。それどこらか、普遍記号学を批判することになるヘーゲルの場合も全く同じことである。われわれがここで照準しようとしているのは、こういった二つの矛盾的運動の連累性である。或る歴史的時代の内部では、無限的神学と、ロゴス中心主義と、或る種の技術主義の間には、根本的な統一性がある。われわれがここで思惟せんとしている根源的で前=あるいは超=表音的な文字(エクリチュール)は、機械による音声言語(パロール)の「のりこえ」などには全然赴かないのである。 (P.162)
註13の末尾
存在論的論拠の可能性と記号学の可能性とのあいだには、本質的な関連が存在している。
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